出石芸術百貨街
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出石町について


 岡山城の北、旭川の土手に沿って広がる岡山市の出石町は、400年あまり前の戦国時代末期に始まった城下町建設とともに順次整備されました。江戸時代には美作地方から川を下って輸送された物資を荷揚げし、城下町へ供給する商人の住む町として、高瀬舟の発着で栄えたところです。

 明治になって、岡山城主、池田家の広大な庭園が「後楽園」として一般に開放されると、出石はその川向こうの門前にあたるため、行楽の市民や観光客で賑わうようになりました。そして昭和5年の陸軍大演習に際しての天皇行幸で、後楽園へ渡るための鶴見橋が、それまでの木造の仮橋から頑丈なコンクリート橋に架け替えられると、往来の人がさらに増え、付近への路面電車や軽便鉄道の開業もあいまって、岡山市東郊と市内を結ぶ交通の要路として繁華の極に達しました。このとき後楽園への道路は、土埃をあげる道が多かった当時では珍しく、路面に備前焼のタイルが敷かれ、沿道には土産物店やだんご屋をはじめ、さまざまな種類の店舗がひしめくように並んで賑わっていました。

 なお、この鶴見橋は、改修を加えられながらも現存し、いまも後楽園を訪れる人が旭川の豊かな流れを眺めながらそぞろ歩きをする場所ですが、高欄(橋の手すりの部分)と照明のデザインは、京都を中心に活躍した建築家、武田五一の設計によるものです。

 第二次世界大戦の末期、昭和20年6月29日の岡山大空襲で、岡山市は市街地の80パーセント以上を焼失し、多くの犠牲者を出しました。しかし出石町とその西隣の、かつて下級武士の屋敷が並んでいた番町、および旧小畑町、広瀬町などからなる城下町北部の一帯は、ある程度まとまった領域が奇跡的に罹災を免れました。

 したがって出石町には、いまも江戸の昔から、明治、大正、昭和初期の各時代にわたる多様な時期の建造物と、それらが作る家並みがよく残っており、落ち着いた佇まいが懐かしい風情を醸しているとともに、それらは近世において、すでに高密度な都市居住を行なっていた岡山城下町の町人地を構成していた商家や民家が、明治期以降も時代の変遷に対応しながら都市的発展を遂げてきたものです。こうした出石町かいわいは、戦後の大規模な区画整理事業による改変を被っていないために、城下町建設当初の街路網がそのまま残る中に家々の敷地割りがなされており、かつて中国地方で二番目に大きく、全国的にも有数の規模を誇った岡山城下町の一部分ではありますが、その具体的な様子が今に息づき、体感的に歴史を知ることができる数少ない地域として貴重です。

 また出石町は、1900年代初頭にアメリカへ渡って、20世紀前半の同国を代表する画家としての令名を確立し、全米芸術家組合の初代会長としても多方面の活躍をした国吉康雄(1889-1953年)が生を享け、17歳で単身出国するまで多感な時期を過ごした町でもあります。いまその生誕地址には、岡山の代表的な金属工芸家、金谷哲郎氏が制作した記念碑が建てられています。

 現在の出石町は、岡山駅周辺への繁華街の移動と、自動車交通網の発達による郊外型商業の隆盛とともに、全国の他都市の旧市街地と同様、人の流れが減少し、業務活動の停滞と住民の高齢化が進んでいます。空き地や駐車場も増え、辛くも戦災を免れた街並みに、大きな変化が訪れようとしています。

 しかしその一方で、古いものを大切にし、かけがえのない歴史や伝統に学びながら、新しい街作りを目指す活動も盛んになり、古く傷んでいた建物をきれいに改装して、人気のショップやレストラン、カフェ、体験工房などに再生させた事例が増えてきています。

 若者も含む幅広い年齢層の人々が古い街並みに関心を寄せ、これを熱心に訪ねて回る時代が到来しつつある中、特別名勝後楽園と、その借景として名高い緑濃き操山、そして旭川の清い流れとともに、古き良き岡山が持っていた、心に沁み入るような風情を伝える出石町が、いつまでも人々の心の中にとどまり、新しい芸術を育む創造性豊かな地域として再生するよう、努力を続けていきたいと思います。



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